院長ブログ

2017.09.20更新

ニューヨークのマスターヒーラー 小林健先生や一日青汁1杯だけの森美智代先生の本には、亡き船井幸雄さんがしばしば現れては重要なメッセージを伝えてくださることが書かれています。

私のもとへは去年の末から華佗老師が夢の中に現れて、氣功や鍼灸の医術を伝授してくださっています。

最初に伝授していただいたのは「華陀鼎灸」でした。

いつもニコニコ顔の白髪&白髭の好々爺さんの姿です。

三国志に疎い私には、どなたなのか? まったくわかりませんでした。

華佗老師とはどんな方なのですか? というご質問をよく頂きますので、今日は華佗老師についてお話します。(コピペです)

中国名医外伝3  華 陀 (かだ)

名医華佗は字(あざな)を元化(げんか)またの名を甫といい、ハイ国の樵県(現在の中国南部安徽省勃県)の人である。
ここより徐州一帯に師を求め学び、多くの経書(中国古代書)に通じていた、ハイ国の宰相の陳珪が彼を考廉に推挙し、大尉の黄宛が彼を官職につかせようとしたが、すべてこれ等を受けなかった。
華佗は養生の道に明るかったので、彼を知る当時の人々は、彼がすでに百才位ではないかと思っていたが、外見はまだ四十才代にしか見えなかったという。

また薬に通じていて、彼が疾病を治療するのに用いる方剤の組成は数種類の薬物の範囲を出ることはなく、彼の頭の中にはそれらの薬草の組み合わせと分量がはっきり記憶されていたので、目分量で量り、天秤でそれらを量る必要がなかったという。
よって患者は水を加えて煮て飲むだけでよく、華佗はその方剤の禁忌や飲み方を病人に教え立ち去った後に、病はすぐ全快するという具合だった。

華佗がお灸を用いる際もその穴位(つぼ)は一、二カ所を越えることなく、またお灸の壮数も七、八壮を越えることなく、病はみるみるうちに治っていった。
また鍼を用いるときもその穴位は一、二カ所を越えず、華佗はよく鍼を病人に刺すときにこう言っていたという。
「この鍼の刺激感が身体の悪いところまで来たと感じたならばすぐに知らせよ」
そこで患者が「先生、来ました」というと、華佗はすぐに抜鍼し、患者の病もすぐに治ったという。

またもし疾病が体内奥深くに長期にわたり積み重なり結ばれていたなら、鍼灸や薬の効果もそこまでは及ばないので彼は自ら手術した。
病人に彼の発明した麻沸散を酒で服用させると、すぐに酒に酔ったように人事不承に陥り何の感覚もなくなり、五日で患者の病状は好転し、一ヵ月以内に患部は癒合し手術は成功したという。
全身麻酔下で皮膚を開き破り病巣を切除した。
彼は疾病がもし腸の部位にあったなら患部を取り出し、それを薬液で洗い、病巣部を切除し、再び縫合しなおし、さらに腹部の傷口を縫合し、創傷の癒合を促進させるため神膏と呼ばれる薬を塗布した。
その後四、五日で患者の病状は好転し、一ヵ月以内に患部は癒合し手術は成功したという。

ある時、郡主の部下で下級官吏の兒(ニイ)尋と李延が一緒に華佗の所に治療を受けに来た。
二人とも頭痛、発熱があり、罹った病もちょうど同じであった。
その時、華佗曰く「兒尋さんは内実である、李延さんは外実である。よって彼らを治療する方法もちがうのだ」と言い、すぐにちがう薬を選び分けて二人に与えた。
次の日の朝には、二人とも病はすでに全快していたという。

またある時、華佗が道を歩いていると喉がつまって、食べ物を食べたいのだが飲み込めないという一人の病人に出くわした。
彼の家族はその病人を車に乗せ医者に行く途中だった。
華佗はこの病人の苦痛に満ちたうめき声を聞くと車を前に止めさせ診察し、そして病人にこう言った。
「さっきあなた方がやってきたこの道沿いに一軒の餅(ピン。中国のお好み焼きのようなもの)を売る店がある。そこにニンニクのすりつぶしたものとお酢があるので、これを一緒にして三升服用しなさい。そうすれば病気はすぐ良くなるでしょう」
すぐさま華佗が言ったようにすると、病人はすぐ蛇のように大きな寄生虫を吐き出した。
それから彼らはそれを車の端に引っかけ、お礼を言おうと華佗の家に向かった。
さすがに華佗はまだ家には戻ってはいなかったが、彼の息子がその門の前で遊んでいた。
この息子は人が来るのを見つけると、まるで独り言のようにこう言った。
「たぶん僕達の父さんに出くわしたな、車に引っかけてある寄生虫でそれがわかるよ」
さて息子の案内でこの病人が家の中にはいると、華佗の家の北の壁にはなんと、この蛇のようなおどろおどろしいものが十数匹も掛けてあったそうな。(標本であろうかそれとも薬用の本物の蛇だったのかも?)

ある時、とある郡主が病を患った。
華佗はこの病人は一度おおいに怒り狂うとよくなると考え、彼から多くの金銀を受け取りながらもいっこうに治療しなかった。
そしてあげくのはてに、この郡主のもとをだまって去り、さらに彼をおおいに馬鹿にし、ののしった手紙を残していった。
これを見てこの郡主はさすがに大いに怒り狂い、人をやってこの華佗を追いかけ捕まえて殺せと命じた。
ところがこの郡主の息子は、華佗のこのはかりごとをすでに知っていて華佗と通じていたので、父の部下に華佗を追いかけて行く必要はない、とこれを諭した。
郡主の怒りはついにここに頂点を極めたまさにその時、彼はどす黒い血を数升も吐き出したのだった。それからしばらくたって郡主の病気は治癒したのである。

またある医官の長がある日、気分が悪くなった。
華佗がこれを診て曰く。
「先生の病気の根はかなり深いところにありますので、腹部を切開しなければなりません。しかしもしこれをやっても先生の寿命は天寿によってこの十年を越えることはないでしょう。ですからその十年のうちにこの病気が先生を死に至らしめることができなければ、この病気を先生は今後十年ずっと我慢しなければならないことになります。あなたの天寿と病死する時期が一緒になっているので、わざわざ腹を断ち割って手術する必要もないかと思いますが?」
しかしこの医官は、もうこれ以上病気の苦痛に耐えられなかったので、開腹手術を要求した。
華佗はついに手を下してこの病気を治し、疾病自体は全快したが、しかしそれより十年後ついに彼は自身の寿命で死に至ったという。

広陵の太守の陳登という者が病気になった。
胸中が煩悶し、顔が赤く、食欲がない。
華佗は彼の脉をとり、しばらくしてこう言った。
「太守閣下の胃の中に幾升かの寄生虫がおります。将来これ等は放っておくと腹部に潰瘍を形成するに至りましょう。これは生の魚の肉を食することによって引き起こされたものです」
こういうとすぐに二升の煎じ薬を配合して、まず一升を服用させしばらく時間をおいて更に全部服用させた。
さて人ひとりが食事を食し終えるほどの時間がたった後(二十分から三十分ぐらいであろうか)、三升ほどの寄生虫を吐き出した。
その色は赤くまだうごめいており、その半身は赤身の魚肉を千切りにしたものに似ていた。
これにより太守の苦痛は取り除かれ、そのあとで華佗はこう言った。
「この病気は三年後に又発病します。良い医者に出会えれば救うことが出来ますが・・・さもなくば・・・」
さて三年後華佗の言った通り発作が起こったが、その時華佗は太守のもとにいなかったので、彼は華佗の言ったとおりに病死してしまった。

三国志で有名な曹操がこのような華佗の名声を聞きつけ、「すぐに華佗を呼んで、いつもワシのそばにおくように」と部下に命令した。
曹操は頭風(偏頭痛)という病を患っており発作が起こる度に難儀していたが、華佗が鍼で膈兪穴(足太陽膀胱経)を刺すとすぐに発作はおさまった。
その後、李将軍の妻の病気が重く、その時強く華佗の往診を望んだ。
往診に来た華佗曰く。
「閣下、これは流産ですが、胎児がまだ子宮内にあります」
将軍はこれはおかしいと思い、
「聞くところによると流産は流産だが、胎児はもうすでに出ているという事だが」
「しかし脉象を診る限り胎児はまだ子宮内です」
「それはおかしい」
李将軍は華佗を信用しなかったので、華佗はこの場をただ離れるしかなかった。
華佗が帰って後、李将軍の妻の病気は幾分か良くなった。
しかし百数日後、又発作がおこり華佗が呼ばれた。華佗曰く、
「この種の脉象は胎児が子宮内にあり、双子であることを示すものです。まず一つの胎児が出たときは出血が多く、その後のもう一人はまだ出ていません。奥様はご自分でも気づかれず、まわりの者も気づかなかったので出産を終わったのです。それで後の一人は出てくることが出来なかったのでしょう。おなかの中で死に絶え、血もそこにめぐりませんでしたので、乾燥して子宮の中のちょうど腰椎の内側に付着し、これ等がキリキリ腰背部を苦しめたのです。今煎じ薬を早急に与え鍼灸治療を施せば、この胎児は必ず出てくるに相違ありません」とこう言った。
婦人が薬を飲み鍼灸治療を受けると、出産の時のような激痛が腹部を襲った。
「この胎児は乾燥してだいぶ時が経っていて自分で出てこられないので、この様なものは必ず人の手を借りなければならないものです」と言うとそれを自分の手で取り出した。
見ると一つの死んだ男の子の胎児であった。
手足は完全で顔色は真っ黒、大きさは大体一尺位あったという。
有名な華佗の卓越した医療技術は凡そこの様なものであった。
彼はもともと中国の古典書の学術の人であったが、人々は彼のことを医者として認識していた。
この事については華佗はいつも後悔していた。
後に曹操が自ら国事を処理しはじめて、病気を患いそれが重くなったとき、華佗にもっぱら診察をさせた。
華佗曰く、
「この病はすでに治癒不可能な領域に達しております。いたづらに治療しても歳月のみを費やすだけです」
華佗は長い間自分の家を離れていたのでとても家に帰りたくなった。
それで曹操にまたこう言った。
「実は今、自分の家からの手紙を受け取ったのですが、一時ちょっと家に戻りたく思います」
その後、家に帰ってからも妻が病気になったとして曹操の元へ戻ろうとはしなかった。
さらにまた何度も休暇を延長して戻らなかった。
曹操は何度も手紙をかいて彼を呼び戻そうとしたが無駄だった。
郡県の役人に華佗を郡に戻らすように命じた。
しかし華佗は自分の技術のみを頼り、禄をはむのを好まなかったので、やはり戻ろうとはしなかった。曹操は大いに怒り、部下を派遣し、もし華佗の妻が本当に病気ならば、小豆を四十斗やり彼の休暇も更に延ばしてやることにした。しかしもしうそを言って休暇を取って人をだましていたなら、逮捕して郡まで引っ立ててくるようにこれに命じた。
しばらくして華佗は逮捕され許昌の監獄に護送され引き渡された。
そののち殴られ、拷問されとうとう罪を認めてしまった。
その時、曹操の軍師の荀或がこう願い出た。
「華佗の医術はまさに高名であります。これはつまり人々の生命と大変関係がある重要人物といえ、この度のことは大目に見て、あまりお怒りなきよう」
しかし曹操はこう答えた。
「天下にこの様な卑しい人物を見たことはない」といい華佗を獄中で死なせてしまった。
華佗はその臨終の時、一巻の巻物を取り出し獄吏に渡し言った。
「この本は人命を救う物である」
しかし獄吏は曹操の怒りを恐れてこれを受け取ろうとはしなかった。
華佗もむりにこれを受け取らせようとはせず、しかたなく火を持ってこさせこれを焼いてしまった。
いつもこの様に重要な医典は失われるのである。
華佗の死後、曹操の持病の頭風は未だに除かれていなかった。
曹操は言う。
「華佗はこの病気を治すことは出来た、しかし奴はワシのこの病気を治療せず残しておき、自分の価値を高めようとしたのだ。もし俺があいつを生かしておいても、奴は最終的には俺のこの病の病根を絶つことはしなかったろう」
しかし後に彼の愛児である倉舒の病気が重くなったときに、ため息をついてこうも言ったという。
「ワシは華佗を殺した事をいまもって後悔している。この子を黙って死なせるしかないとは・・・」

華佗が曹操に仕えてから最初の頃、軍人の李成が咳嗽病を患い昼夜眠れず、更に時々膿血を吐いた。
この種の病状を華佗に聞いたところ、
「あなたの患ったのは腸痛である。咳が出たときに吐き出した膿血は肺の中からの物ではない。私が貴方に二銭、粉末の薬をあげるので、これを飲んだら二升の膿血を吐くでしょう。これを吐き終わった後、すぐに気持ちよくなります。こののち良く養生して一ヵ月後に病状は好転し、一年は健康に過ごすことが出来ます。十八年後にまた一回小さな発作があるかもしれませんが、この薬を飲んだらすぐに全快します。しかしもしこの薬がその時なければ、ただ死ぬのを待つばかりという事になります」といって更に二銭の薬を彼に渡した。
李成が薬を得て後五、六年の後、彼の親戚の一人が李成とまるでうりふたつの病気を罹った。
彼は李成にこう言った。
「あなたは今、身体がこの様に元気であるが、私はもう死にそうである。あなたはどうして非情にも自分は病気でもないのに、その薬を隠して、私の死ぬのをただ見て見ぬ振りをされているのか。どうかそれを私に先に飲ませて下さい。病気が良くなったら、華佗に言ってそれを再び手に入れましょう」
ついに李成は薬を彼に与えた。
それからすぐにある県に行ったが、そこでちょうど華佗が曹操に逮捕されるのに出くわした。
あわただしさの中、非情にも華佗に薬をくれとはいえなかった。
十八年後、李成の病気の発作がついにやってきた。
しかし薬がなかったので、ついに彼は死んでしまったという。

広陵の呉普と彭城の樊阿は皆、華佗に医学を学んだ者である。
呉普は華佗の治療法により多くの病人を救った。
華佗は呉普に言う。
「人体は運動を必要とするものだ。ただ余り過度であってはならないだけである。
いつも動きまわっていれば、五穀精微の気(穀物中の栄養分)は消化吸収され、血脉は流れ通し、疾病が発生するなどと言うことはないはずである。
そうであろう、たとえて言うなら、家の大きな門の蝶番はいつも動いているのでさびたり朽ち果てたりはしない。これと同じ考え方である。
この様に長寿であった古代の人々は、すでに気功のような体を鍛える方法を作り上げていたのだよ。
いわばそれは四肢を熊のように動かし、頭を鳥のように振り、腰を伸ばし各種関節を動かし、老化を防止する体操のひとつだな。
五禽戯(ごきんぎ)と呼ばれるこの方法は一つは虎戯、二つ目を鹿戯、三つ目を熊戯、四つ目を猿戯、五つ目を鳥戯とよび、疾病を駆逐し、手足を軽く軽快に動くようにすることが出来るという古代人の運動法なのだよ。
身体が少し不調であっても、ちょっとひとつの動物の動きをまねるだけで体中から汗が出て、まるで体が軽くなったように感じるものだ。
そうすると腹も何か自然に減ってきて、何か食べたくなるというものだよ」
呉普はこの方法を自ら行い九十才まで生きたという。
死ぬまで耳も目もはっきりし歯もしっかり全部そろっていたという。

一方の樊阿は鍼灸に優れていた。
凡そ多くの医者は背中と胸の間は多くの重要な臓器があり、自由に鍼をすべきではなく、ここに鍼をするときには四分の深さを越えてはならないと考えていた。
しかし樊阿は背部兪穴には一寸から二寸の深さまで刺すことができ、巨闕を刺すときは五、六寸の深さに達することもあったという。
これらで彼は病気を次々に治していた(これらは実際には方向によっては大変危険であるので行ってはならない)。

樊阿は華佗に人々に有益な方剤を教えて欲しいと頼んだとき、華佗は漆葉青黏散の薬方を授けた。
これは漆葉屑を一升と青黏屑を十四両をこの比率で用いる方剤で、長くこの薬を服用していると、腹中の各種寄生虫を駆除でき、五臓に気を通し、体を軽快に保ち、ひとを白髪にさせないというものであった。
樊阿は華佗の各種方法を患者だけでなく自分にも用いていたので100才まで生きたという。
漆葉(青蓁)はどこにでもあり、青黏「またの名を黄芝、地節ともいう」は豊(今の中国江蘇省豊県)、ハイ(今の江蘇省ハイ県)、彭城「これ等は皆今の江蘇省の徐州一帯である」、朝歌一帯に自生する植物である。 

※著者・今村紳鍼 漢方鍼医誌より転載

 

投稿者: 医療法人愛香会 奥山医院

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